笑魚のB級コラム

B級コラム

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雨にもまけず風にもまけず

宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」を始めて読んだときは、ずいぶん子供だったから、賢治が何が言いたいのかよくわからなかった。が、人生齢を重ねてくると、この詩の重さが見えてきた。

人間は煩悩に囚われて一生過ごすわけだから、かくありたい、かく生きたいという想いなど、いくら願ってもかなうすべもない。所詮は葛藤を繰り返し、解脱できないまま生を終えることになる。「雨にもまけず風にもまけず」と言う言葉には、風土に根ざした人生前向きの敢闘精神を、つい連想してしまうが、賢治の想いが込められているのは、むしろその逆で「ほめられもせず くにもされず そういうものにわたしはなりたい」という結びの言葉だろう。世俗に対する執着、撞着、葛藤を振り捨て、ただあるがまま静かな心でいたいという想いだ。人生にくたびれ果てた男の姿がそこにある。弱い人間にこそ万人は共感できる。万葉の昔から日本人はナーバスだ。

釣り人には色々な姿がある。ただただ釣果しか目に入らず、いっそ漁師に生まれた方がよかったのでは?と思えるような釣り人もいるし、研究熱心で魚の生態はもちろんのこと、流体力学の分野まで頭を突っ込む凝り性の人もいる。大物を追いかけ世界中を釣り回る一徹者もおれば、卓上旋盤を買い込んで釣り具づくりを始めるにわかエンジニアもいる。競技の世界にのめり込み「勝った!負けた!」と口から泡を飛ばす勝負師も多い。本当に百人百様で面白いのだが、僕が見る限りもっとも多く見られるタイプは、海に恋した詩人ではなかろうか。

金網を破って釣場に通うような輩は、その精神構造からして100%詩人には成れないと思うが、釣場に捨てられた小魚や糸に絡んだカモメを見て、心が痛む人ならばみんな賢治のような詩人になれるはず。心が痛むと云うことは感受性があるということに他ならない。人でごった返す海水浴はただの光景でしかないが、釣り人の目に写る海辺の風景はずいぶん心象的だ。海の蒼さ、雲の白さ、風の痛さ、魚鱗の輝きを心一杯に感じ取れるだろう。釣り荒れた都会の波止で好釣果など、まず望めるものでない。それでも人は通う。魚のアタリを感じたいだけでは、ボウズを繰り返せるものではない。釣りは現実逃避の手段という人もいるが、僕はそう思わない。自分の中の詩人を発見しに行く旅なのよ。

まっとうな海の詩人

雨にもまけず
風にもまけず
雪にも夏の暑さにもまけぬ
釣り道精神をもち
常に哀れみを忘れず
決してあきらめず
いつも大声でわらっている
隣に釣り人が来れば
やさしく笑顔を返し
新製品が出れば
もったいないと
愛機を磨く

荒磯の松林近くの
古びた小屋に棲み
東に釣りを覚えたい子供がいれば
行って仕掛けを作ってやり
西に大釣りした釣り人あれば
行ってそのクーラーを負い
南に貧果の釣り人あれば
行って明日があるさといい
北に釣り座あらそいがあれば
つまらないからやめろという

ぼうずのときも海に感謝し
さむさの冬は一人海で凍える
みんなに釣り馬鹿とよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい

まっとうでない海の詩人

雨にもまけて
風にもまけて
雪にも夏の暑さにもまけて
胃腸疾患とローンを抱え
小遣いを握りしめ
餌の値上げに
舌打ちを繰り返す
隣に釣り人が来れば
横目でシッシと追い払い
新製品が出れば
バーゲンをひたすら待ちわび
割引価格を問いつめる

下町の高速道路の蔭の
小さな鉄筋小屋に棲み
東に釣りを覚えたい子供がいれば
行ってそんなに甘くはないと言い聞かせ
西に大釣りした釣り人あれば
潮次第さ〜と鼻を鳴らし
南に貧果の釣り人あれば
釣りは腕!腕!とまくしたて
北に釣り座あらそいがあれば
顔見知りの肩を持つ

ぼうずのときは悔し涙を流し
さむさの冬はコタツにこもる
みんなに釣り馬鹿とよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい

◆ ◆ ◆

ふふふ〜あなたはどっちになりたい?
本当はどっちも、まっとうな釣り人なのよ
ところで笑魚はと・・・アハハハ(^◇^;)ゞ